19 1月

現実からの解放を勝ち取ろう

私が地域で生活する精神の人達と出会って14年くらいになる。その間、かわらぬ理念は、「病気からの回復」→「傷ついた人間性の回復」→「病気先にありきではなく、存在先にありきである」など…、行政施策や国の政策、そして未熟な社会の壁になると信じて、その理念を私が打ち立てた。そこに導いてくれたメンバーに感謝する。また、今は、「入院すると、施設神経症を誘発し、病状が悪化することがよく知られている」が、無知であった私には知る予知がなかった。しかし、後ろから私に働きかける直感が入院を極力反対する側(がわ)に立つように強く求めてきた。
 先日、知り合いから連絡がはいり、ある映画をみるように紹介された。それはイタリア映画祭で上映された「人生ここにあり」(原語訳:やればできるさ)である。もう、みる機会はないだろうと諦めていたが、みる機会が与えられた。映画館で売られていた冊子の中で、ジャーナリストの大熊一夫氏は「ああ、日本精神保健との何たる違い!」と言うタイトルの中で「イタリアは1998年の12月で、全ての精神病院をなくしました。どこの国もなしえなかった世界的な快挙です」と綴っている。日本の現状からは考えられない現実。
 話は全く違うが、あるキリスト教の一つの派が教派をこえて神学生を募集して、ターミナルケアにつながるような実習プログラムを提案していた。これは、1967年から開始された実習プログラムである。聖路加国際病院における「臨床牧会訓練」が、ちょうど1998年で第30回を迎えようてしていた。そこに参加してトレーニングを受けていた私が、スーパーヴァイザ-から私にとっては問題となる発言を受けた。結論から言うと、その「臨床牧会訓練」は中断され、正式に再開されたと言う報告はない。偶然にもそれが同じ1998年であった。苦しむ人間存在のケアの本質をさぐるべき「臨床牧会訓練」の内容が、訓練生を傷つけることになったと結論づけられ議論が広がった。だが、それとは真逆の流れにあり、現実に沿ったイタリア映画を観ていたことになる。1998年とはあまりにも偶然すぎるくらいの偶然。国は違えど、領域は違えど、文脈が違えど、決して忘れることのない1998年となった。
 話は戻るが、このような映画は確かに他にもあったが、どちらにせよ、その底流にあるテーマは、精神障がい者をはじめとする社会的弱者がうけてきた、いや、受けている不条理な世界で、大切な人生が奪われた映画であると感じた。この映画では、彼女ら、彼らの「生きづらさ」を克服するそこ知れぬ素地がイタリアと言う国にあったと感じた。「世界で初めて精神科病院をなくした国」。日本…日本がおなじような国となるのに500年以上かかるだろうとおもうのは私だけであろうか。私のおもいがはずれることを祈るばかりだ。「陽気で明るい」、そして、希望ある人生に光をあてながら、力まず自らの手で勝ち取るべき内容をもつ映画あった。支え合い、赦し合い、愛し合い、うけとめ合いながら、現実からの解放を勝ち取ろうを合言葉にしたいと願って映画館を後にした。