16 1月

限界ある人間愛の「関係の創造に祝福あれ!」

私が、精神界において、常に、哲学の次元に導かれるテーマが〈個々〉の限界ある人間愛である。つまり、限界ある人間愛の「関係の創造」と謂う質的内容、もしくは、質的要素である。それが、如実に現れるのが以下のような2つの局面である。①の局面→隣人のことを自分の関係する人たちに話の話題とする時である。個人情報にひかかるような話題には、人間愛の質的内容、もしくは、質的要素が問われていると考えたほうがよい。言い方を変換すれば、〈個〉の人間としての限界ある人間愛の質的内容、もしくは、質的要素の更なる低下となる。それから、②の局面→人間愛に歳の差なんて関係ないと謂うのだが、確かに、そうではあるが、精神界における〈各々〉が、今までとは違う環境(経済的環境も含む)で育ってきた〈各々〉である以上、そういう訳にはいかない。歳を重ねたほうが、将来の自分の姿を創造力をもってして考えて隣人の幸せを考えてあげるくらいの〈心の余裕〉がほしい。勿論、その真逆のことも謂えるだろう。誰でも、歳関係なく元気な時期や、調子や体調のよい時期は、何でも乗り越えられると思うだろう。つまり、両者の人間愛が勝ってしまう。然りとて、人間愛にも〈自由〉が添えられている。しかし、そこに、精神界における〈落とし穴〉がある可能性を含む。「心の対話」では、〈対話交信〉にも限界がある。一方通行的対話になるからだ。さて、以下の内容は、一般化できない〈個〉の哲学の範囲内でとどめるしかない限界的提言となるだろう。それがだなぁ、いくら人間愛が勝っていても、この世の中の枠組みにはめて、両者の限界ある愛をもってして関係を深めなくとも、両者にとって、息長く、心軽い愛の関係でいられるのが第一義的に楽な「関係の創造」があると考える〈個〉である。故に、枠組みにとらわれずに関係を成立させてゆく方法がないのか。いや、両者の関係を成立させてゆく方法があると信じる〈個〉である。それも、〈個〉の一方通行的哲学である。ところで、限界ある人間愛が良いとか悪いとか謂うレベルで哲学をしている訳ではないので誤解のないように。どちらにせよ。アガペーの《愛》を〈土台〉とした限界ある人間愛に生かされている我々である。最後に、二つのことを伝えて「心の対話」の締めとしたい。①「〈個〉の私が両者の限界ある人間愛を束縛する権利も権限も全くない!」。②「関係の創造に祝福あれ!」