30 1月

〈感情的愛〉と《普遍的愛》の《温度差》を示唆する〈個〉の心と心の対話となることを願って・・・!

若き頃の〈個〉の私は、季節感の中で、〈寒さ〉や〈あつさ〉が好きだった。どちらかと謂うと自然の風景が雪景色となるところに身をおくほうが、より好きだった。ところが、理屈抜きで〈寒さ〉に弱くなった自分自身を実感する昨今である。それと同時に〈あつさ〉にも弱くなった自分自身を実感する昨今である。上記の内容を、内面的な面で言い方を変換すれば、次のような〈個〉の心と心の対話となる。若い頃は、《普遍的愛》を知る心の余地もなく、心の火傷をまねくような、〈あつさ〉知らずの〈感情的愛〉が先行して人を好きになったことを想起する。それが、《普遍的愛》と謂うよりは好きだと謂う〈感情的愛〉が先行した自分自身であった、と自己分析している。いい歳をぶらさげて、今頃になって気づいたのか、と謂われる人がいるかも知れないが、若き頃の〈個〉のありのままの姿なのだ。精神界においては、奪われてきた〈感情〉の表出が大切である、と心の対話の中心軸であった。それをレベルアップして考えてみると、つまり、〈感情的愛〉の表出と《普遍的愛》の表出の多大な《温度差》になると、前者が先行して後者が後退することが多くなる現実がある。つまり、《普遍的愛》を知らずして〈感情的愛〉だけで好きになる。まぁ、理屈で、それが、解るほど簡単な次元ではない。いやいや、それを経験・体験してきた人は〈心を痛めた〉が《寒い人生》を乗り越えてきた、と切に思う。精神界における《心の寒い》人生が、何を意味するか、解る人には解るだろう。〈感情的愛〉から《普遍的愛》に変換できる人生を祈るのみである。それは、前者と後者の《温度差》の違いで、〈各々〉が、精神界における調子や体調を崩さないための祈りが〈沈黙〉の次元に届くことを願う〈個〉であるからだ。