19 2月

「敵意の中垣」を超越した《愛》の〈業〉

聖書のたとえ話を、再度、想起したい。それが「よきサマリヤ人」の例え話だ(新約聖書:ルカ伝参照)。道端に倒れて瀕死の状態にあるユダヤ人をほとんどの人たちが、見て見ぬふりをして通り過ぎてゆく。同胞である祭司やレビ人たちさえも、見て見ぬふりをして通り過ぎて去って行った。ところが、普段から関係をとらないどころか、敵対関係にあった一人のサマリヤ人が、思いをつくし、心をつくして、つまり、誠心誠意を尽くして、瀕死の状態のユダヤ人を助け、完治するまで支援するという例え話だ。
さて、上記の話が昔の例え話ではなく、先日、山村で私自身が体験をしたことだ。どんな関係であろうとも《愛》がなければ、虚しくもあり、悲惨な「関係の創造」でしかなく、生きているようで死んでいる関係といえる。「在日韓国人二世」として日本で産まれた〈個〉の私は、先日、瀕死というそんな大袈裟な状態ではなかったが、《愛》を中心軸とする『在日日本人』の支援と助けがあって、幸いにも、救急で地元の病院で受診ができた(どの病院・クリニックも休診日)。つまり、山村に在住する隣人に助けられ支援を受けたのだ。それは、一生涯忘れられない出来事だ。