31 10月

「想起することから我が人生道を悟る」

私が家族を残して東京の町田市にあるプロテスタント系の神学校に行ったのは37歳の時である。
それまでは、親代わりの人が経営していた喫茶「アンナ」を手伝っていた。ある事情があり、雨降る中、家族共々そこを飛び出すことになる。
その間、いろいろなことがあったが、岐阜県穂積町(現、瑞穂市)に位置するある大学の前で「カフェ&レストランアンナ」を経営することになった。
これは、家族一人ひとりの自立と自律の第一歩でもあった。私も連れ合いも調理師免許は取得したが、私は全く料理ができず、ほとんどパートナーに任せていた。つまり、車に例えると私はペーパードライバーである。
ところで、開店前日、借りていたバイクを乗ろうとして操作をあやまり、開店準備していた店にバイクごと突っ込み、左腕に大怪我をさせた。左腕さんゴメンなさいである。救急車で運ばれ手術したが、神経系がうまくつながらず、今だに指先から左腕全体が痺れている。
何故、そのようなことが起こったのか。今思えば、乗り慣れていないバイクに乗ったからではなく、「心ここに在らず」または「心ここにあらざれば視れども見えず」。
つまり、他のことに心を奪われていて、今成ことに心を集中できず、我を見失っていたのである。小さいこと大きいこと関係なく、何かに取り組む時に「心を集中」することが、いかに大切かを以上の体験から深く学んだ。同時にその頃、何故か、私の心に穴が空いることに気づき、むなしさを感じていた。それが、神学校に行くことにつながるのである。