4 11月

「考えるより実感したい我」

この歳になり、あらためて何かを求めて生きてる実感を渇望(=のどが渇いて水をもとめるように、手に入れたいと切実に望むこと)する我が存在する。
それが心を潤し、乾くことのない心のわき水となる。我が我である自然のありようである。座禅を組んで自分が我を前にして我に集中し、無の心からうまれる心の声を待つ。
その時に一つのルールがある。考えるのではなく感じることに集中して待ち望むことである。
雑念ふるい落としながら…。心の声を実感するまで傾聴は続く。
考えたいなら学問すればいい。なんぼでも頭の作業ができるから。
考えることを否定しているわけではないが、感じる心の回復を祈る世界に生きる我である。