30 9月

「よそ者としての隣人愛の本質」

古典中の古典の書である聖書に、私が、「隣人とは誰か」・「隣人愛とは何か」という問いの前に立たされる次のような内容が記載されている。
ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中で、追いはぎに襲われた。そのために、その人が道ばたに倒れていた時である。
同じ教派で同じ共同体の人たちが、その人を助けると思いきや、助けるどころか、その人を避けて、反対側の道を見てみないふりをして通り過ぎてしまう。
しかし、普段は反目するような関係にあり、よそ者としての存在であるサマリヤ人が、その瀕死の状態の人に手をさしのべて、介抱して助けるのである。
このストーリーには、『良きサマリヤ人』というテーマがつけられている。私は、このストーリーをメッセージとして、どのようにうけとめているのか。
私という人間が、いかに枠組みの中にあっても、枠組みの外にあっても、排除の対象を無制限につくる可能性がある少数者的ハマルティア(罪人)であるということだ。
さて、こちらに引っ越しをしてきて、悔い改めの中で深く悟ったことがある。私の生活の現実と心が、瀕死の状態にあった時、慈しみ深く、優しく手をさしのべ助けてくれたのが、教派の違うよそ者としての隣人であった。誤解のないように伝えたい。勿論、内なるよそ者としての隣人もいたが、少数である。内外問わず、よそ者としての隣人愛の行為のたしかさによって、信じることが赦されて、流された涙が私の人生に目標・目的を与えてくれたことをみんなに伝えたい。「涙よ。ありがとう。」