24 10月

「いじめる側の痛み=いじめられる側の痛み」

私達には、社会生活の中で関係の創造の勘違いがあるのではなかろうか。
ここではっきりと互いに再認識しようではないかと提案したい。
例えば、「いじめ」の問題がよく取り上げられるが、私もいじめられた体験者の一人であるが、皆さんの中にもそのような体験者がいるだろう。
いじめる側といじめられる側にどんな差があるのか。みなさんはどのように思うのか。
結論からいうならば、両者には差がない。つまり、両者に深い心の傷を残してしまうという残酷な結末がのこるだけである。
心の傷を互いに縫い合わせあう関係の創造の中で、共に生きる普遍的な愛ある人生を、その道を模索しなければならない時代がきた。
特に、相手(隣人)をいじめるということが何を意味するのか。それが根本的にわかっていない。それは切実でとてもとても深いテーマである。
私的見解として、最後に伝えたい。そのいじめる側の言葉や行為が、いじめられる側だけではなく、いじめる側本人、つまり、その自分の存在と、その心を容赦なく徹底的に痛め付けている事実に自分自身がはやく気づく人生であることを祈る。
以下は余談だが、古典中の古典の書に興味あるたとえ話がある。「よきサマリヤ人」の話である(ルカによる福音書10:25~37)。そこに何かヒントがあるかも…