17 10月

「感謝の実が熟するところに個の自立あり」

私が、この歳になり、「自立とは、何か」を哲学する上で、大きな勘違いをしてきた一人の「個」である。
小さい時から、親代わりの人に育てられ、そこから離れてから独立独歩の人生を一人で模索して歩んできたかのように思ってきた傲慢な人間であると、告白して懺悔の心で次のように伝えたい。
よくよく考えてみれば、この歳になるまで、どれだけ多くの人たちから支えられ、見守られて、生きてきたことか。
どれだけ多くの人から、厳しくも優しい愛の衣に包まれて、生かされてきたことか。
どれだけ多くの人たちから、ありのままの姿がゆるされる中でうけとめられてきたことか。
あげれば、きりがなく、天文学的感謝に集約できる熟した我が人生であったと振り返る。
私にとっての自立とは、一人で何かできることを意味するのではない。一人で何かを達成することを意味することではない。一人で何かを成功させることを意味することでもない。
先に伝えたように、どれだけ多くの人たちによって、「支えられた」・「見守られた」・「助けられた」・「愛された」、我が人生であるかに深く気づき、具体的感謝に集約させた熟した生き方
こそが自立である。
感謝の実が熟すことなく朽果てる人生に自立はない。