11 1月

しあわせな人生

人間、うまれて今まで、平凡な日々の生活があり、嵐のような日々もあるが、それが各々の個人的な歴史的背景となる。
小学生の時には両親が他界して、私にはその存在がいなかった。私と同じ人もいるだろう。だから、不幸かと言えば、私はそう思わない。この歳になり、「しあわせだなぁ~」と日々思う心がつよくなる。
それには、ある歳になって、あることを体感してから、理屈ではなく、力関係でもなく、自分の後ろ姿をみながら、淡々と自然体で生きていこうと思うキッカケとなった。
後ろ姿をみる感性がなければ、毎日、鏡にうつる自分をみる余裕を持てばいいなぁ~。
「自由に生きてきたなぁ~」。「自由に生きているやないか」と言う人がいる。誰と比べて、そのように私にいうのかわからないが、後ろから誰かに押し出されるような人生と感じる時がある。無理があるようで無理がなく、しあわせだ。人からはどうみえるか知らないが、関係なし。「しあわせな人生だ」。感謝する言葉以外みつからないし、それを超える言葉はない。響きはよいが、そんな簡単に得られるのかと問われて、「はい」と言えるか言えないかは、やはり自分次第である。しあわせの基準が違うから…。
しかし、これだけは確信をもって伝えることができる。それは、私のことを絶対に否定しない人達に囲まれて育まれた人生だ。これだけは共通しているよ。
感謝で留まることなく、これからも生きるに大きな力にしていくよ。存在否定は生きる力にならない。
私は、これからも夢をたべて生きていける。そのように言える歳になったのか、いやいや、歳は関係なく、その人生をプレゼントしてくれた人達との出会いがあったし、今もある。
私も誰かにしあわせな人生をプレゼントできる人間になりたい。これから心掛けたいことがある。それは、何事からも自分から逃げないし、しあわせを逃がさないように自立(自律)した自分を育てることだ。
加えて、自分が愛されていることに溺れないように自立(自律)して生きていきたい。その自立(自律)した愛は人間を「物化」しない。
「私は私」、「あなたはあなた」と認め合い、いかしあう実存的関係の中からうまれる愛とやさしさを信じる。逃げ道をつくれる人も逆説的にうけとめれば、自立(自律)した人と言えるだろう。